2025年12月15日
新しい週のはじまり、正月事始めも過ぎ、郵便ポストには年賀状の受け口が用意され、今月も残すところあと半分、空気の澄んだ冬晴れの朝です。今日もよくいらっしゃいました。朝のひととき、心を合わせ、祈りましょう。
新約聖書の「希望はわたしたちを欺くことがありません。」という言葉の黙想が特に呼びかけられた聖なる年も終わりが近づいています。カトリック教会では25年に一度、聖なる年、ジュビリーやホーリーイヤーと呼ばれる、特に巡礼が進められる1年を祝い、過ごします。今年2025年は、その年で、特に「ついえることのない希望、神への希望を際立たせる聖なる年」とされてきました。
希望は、いつでも私たちの進む道の先を照らす光であり、人生の荒波にあっては錨となって、私たちが悪の波に流され呑まれることから守ります。私たちの人生の旅路は希望を求めて歩む巡礼のようなものなのかもしれません。
人は誰かを希望とし、また誰かの希望となることができます。皆さんの傍らにはどんな希望があるでしょう。時に希望などもうないかのようなニュースにも接した今年でしたが、クリスマスを前に、どんなときも必ずともにいてくださる存在に信頼を寄せ、どの人も傍らにある希望に気づくことができるように願い、手を合わせて祈りましょう。
足あと
ある夜、彼は夢をみた。
主と共に浜辺を歩いている夢を。
空の彼方に光がひらめき、彼の生涯のひとこまひとこまを映し出していた。
砂にしるされた二組の足あとがみえた。
一つは彼のもの、もう一つは主のものだった。
生涯の最後の情景が映った時、
砂の上の足あとを振り返ってみた。
すると、その生涯の道筋には、ただ一組の足あとしかない時が
いくたびも、あることに気がついた。
それは生涯で最も落ち込んだ、悲しみの、まさにその時だったことにも気がついた。
どうしてもこれが気になって、彼は主に問うた。
「主よ、かつて、私があなたに従う決心をしたときに、
あなたは私に、いつまでも共に歩む……とおっしゃって
くださったではありませんか。
しかし、私の生涯で最も苦しかったあの時、この時に限って
足あとが一組しがないことが気になっています。
一番一緒にいてほしかったその時に、私を一人にされたのはなぜですか」
主は答えられた。
「愛しい、大切な私の子よ。私はあなたを愛している。
決して、あなたを一人にすることはない。
試練の時、苦悩の時、ただ一組の足あとしか見えないのは、
その時、私があなたを背負っていたからなのだよ」(作者不詳)