2025年6月30日
新しい週のはじまり、燦々と、という言葉がふさわしいような日差しに、夏木立の日影をありがたく感じる朝です。今日もよくいらっしゃいました。朝のひととき、心を合わせ、祈りましょう。
皆さんは校舎の裏手、外堀側の小径を歩いてみたことはあるでしょうか。
胸にいばらの冠と炎のついたハートを抱く聖心(御心/みこころ)のイエス・キリスト像に出会うと思います。「いばらの冠」は彼の生涯に受けた苦難を、「燃える炎」はそれでも変わることも消えることもない愛の心を示します。
聖母月の5月に続く6月はみこころの月と呼ばれています。
みこころは、「人間の中に神のいのちがあり、神がお住まいになっておられることを、何とか人間に知らせ、出会わせるために、ご自分の命さえ惜しまれなかった、イエスさまの愛の心」と説明されます。涸れ果てるまで何一つ惜しまず、最も小さな人に近づき、寄り添って真理を説き続けた姿は、人の世の目からすれば、「骨折り損のくたびれ儲け」に見える道かもしれません。それでもなお、愛に満たされ、愛に生きたキリストと同じ向きを目指す生き方を私たちも探したいものです。
4月に帰天されたフランシスコ前教皇様は、「わたしの心を、あなたの聖心(みこころ)に似たものにしてください」という美しく小さな祈りを勧めておられました。みこころの月の終わりに、そのように心で願いながら、手を合わせて祈りましょう。
*参考:カトリック麻布教会誌『こころ』(2014年6月号 主任司祭 稲川圭三師の巻頭言)
人に愛をあらわす
天の父よ、あなたはわたしたちに、
自分を愛するようにひとを愛しなさい、と命じました。
わたしはあなたの望みどおり、人のよい点を認め、
ひとの過ちをゆるし、ひとの立場を理解し、
協力することに努めます。
キリストよ、あなたは惜しみなく、
すべての人にゆるしとしあわせをあらわしました。
わたしが人の弱さや乏しさに、
すすんで愛を示すことができるように
導いてください。