自分自身を受け入れ、相手に与えていくことの大切さを学びました
1月22日(月)に、サレジオ会司祭の関谷義樹神父様をお迎えして、中学三年生の「黙想会」が行われました。高校生活への準備期間としてせわしない日々を送る中、生徒たちにとっては、ゆったりとした時間の流れの中で、自己と向き合い、神様と対話できる貴重な一日となりました。日程は、以下の通りです。生徒の感想とともにお伝えします。
【神父様のお話(1)】
・絵を描いた(絵を描くワークをした)ときに、「この絵を描いた自分を受け入れられてますか?」と神父様に言われて、「受け入れる」とは何だろう?と思いました。でもこの絵を描いたのは、学年全員の中で唯一自分だけと思ったら、絵がかわいく見えてきました。自分と他人を比べることはたくさんあるけれど、その人にはなくて自分にあるものがきっとあるはずだから、その能力を無駄なく使いたいです。
・「自分を受け入れることができていますか?」と神父様が問いかけた時、迷った。自分は本当に自分を、ありのままの自分を受け入れ愛しているか?…できていない、と思った。毎日、ただ日々をやり過ごしているだけで、自分はどんな人間か、どのくらいのタラントン(talent=才能)を持っているのか、わからなかった。自分なのに、自分がわからなかった。自分についてよくわからないまま、もう15年生きている。周りの事ばかり考えて、自分について考える時間って、本当にない、なかったと思った。
【協力ゲーム】・【神父様のお話(2)】
(「協力ゲーム」は、体育館にて行いました。班になって行い、一言も発さないで、自分の持っているピースを場に出しながら、班で一つの正方形を完成させるゲームです)
・(協力ゲームを通して)「誰かを助け、自分も助けられ、誰かに与え、自分も与えられること」が必要なのだという、神父様のお話の内容を、自分の身で感じるためのものだったのだと思います。協力ゲームでは、自然と、周りを見るために視野を広げ、相手の必要としているものを考えて積極的に行動することができます。考えて動くことも大事ですが、無意識でこのようなことができるのが大人なのだな、一人の人としてやるべきことなのだなと思いました。
・協力するためには積極性が大切、というのが心に残りました。何かをするとき、自分が、それをやりたくない、つまらない話だとしても、ある程度は、空気を読んで、自分から話し合いに参加することが大切だと考えました。そういうことができたら、大変なことでも良い提案ができたり、物事がスラスラ進むのではないかと思いました。「一人が溜めこむと周りが淀む」という神父様の言葉も、このことに通じているなと思いました。
【個人作業「神様への捧げもの」】
今思っていること、考えていること、悩んでいることなどを神様に向けて紙に書き、テープで封をして、御ミサの中で捧げました。
【神父様のお話(3)】
・マザーテレサの「愛の反対は無関心」という言葉と、聖書の「善きサマリア人」のたとえの話は、それぞれ知っていたけれど、この二つがつながるということは初めて知った。愛するための4ステップ(見る→共感する→近寄る→与える)が、「アンパンマン」のお話の構成になっているのはすごいなと思った。小さい子がよく見るものの中に、「愛すること」という基礎があるのは良いなと思った。
・「自分を愛するように人を愛しなさい」という言葉が、今までよくわからなかったが、今日、自分と他者について考えることで、「人を愛する」「他者の隣人となる」ということが理解できた。改めて考えてみると、協力ゲームのときは、自分は相手の隣人になれていたと思う。高校生になると忙しくなるが、自分と向き合い、神様が言う「他者を愛する」ことができるようになるために、考え、行動し続けていきたいと思う。
【ミサ聖祭】
聖堂にて御ミサを行いました。ミサの中で神父様は、「地の塩・世の光」という言葉について、生徒たちと対話しながらわかりやすく説明して下さいました。